(岩手県釜石市において実践している津波防災に関する研究活動を紹介します)
鵜住居小学校・釜石東中学校におけるこれまでの活動と津波襲来時の対応
釜石市内でも先進的な津波防災教育を実施してきた両校の活動と津波襲来時の避難状況について紹介します
これまでに実施してきた防災教育の概要
大槌湾の根浜海岸の近くに併設している両校は、釜石市津波浸水予測図では浸水域外となっています。しかし、津波による被害を受ける可能性が高いとの認識にもと、『手引き』に基づいた防災教育のほかにも、学校独自で様々な取り組みを実施してきました。
EASTレスキュー(釜石市東中学校)
『自分の命は自分で守る』ことができるようになるだけでなく、『助けられる人から助ける人』への意識を育むことを目的に、EASTレスキューという独自の全校防災学習を平成21年度から実施しています。そして、その活動の一つとして、防災ボランティーストという災害時に『助ける人』になれるような知識や技術を身につけるための実践教育を行っています。
この取り組みは、もともと同校において、生徒会が中心となって活動していた地域貢献に関する活動(ボランティースト)の中に、防災を取り入れたもので、年に1回、様々な活動メニューの中から一つを選択して受講するという形式で実施しています。以下に、例を紹介します。
           
防火訓練応急処置救急搬送
           
防災マップづくり非常食炊き出し防災マップ・安否札配布
           
津波記念碑清掃竹ざお担架づくり水上救助

これらの活動が評価され、釜石東中学校は『ぼうさい甲子園』の優秀賞を平成21年、22年と2年連続で受賞しました。特に安否札を全校生徒で作成し、地域の各世帯に生徒が手渡しで使い方を説明しながら配布する活動が高く評価されました。
津波防災意識啓発DVD『てんでんこレンジャー』の作成(釜石東中学校)
EASTレスキューを通じて得た知識の中で、特に避難に関する知識に着目し、自分たちが学んだことを他の人に伝えるための活動も行いました。それが津波防災意識併発DVDの作成です。このDVDは、生徒たち自身で脚本を書きました。、DVDは生徒扮する「てんでんこレンジャー」が、津波から無事に避難するためにしておくべきこと、日頃から備えておくべきことをわかりやすく紹介するという内容になっています。
     

小中学校合同避難訓練(鵜住居小学校・釜石東中学校)
両校は、海岸近くの津波による浸水を受ける可能性の高い場所に併設しているため、いざというときには学外への避難が必要になります。しかし、学校の近くに全員が避難することのできる高台はないため、離れた場所まで避難しなければなりません。しかもその避難経路は1本しかなく、その道幅も広いとは言えず、自動車が通行しているなか、小中学生全員が避難した場合には、混乱することが予想されました。
そこで小中学校が合同で避難訓練を定期的に実施しています。このように合同で実施することで、小中学生が入り交じった状態で混乱なく避難することが可能であるかをどうかを確認するとともに、小学校低学年の児童の避難を中学生が手助けする、という避難支援方法も確認しています。これも『助けられる人から助ける人へ』という理念に基づいた活動の一つです。
           
学校から高台の避難場所まで駆け上がる低学年やけが人の避難をリヤカーで支援小中学生全員で点呼

こども津波ひなんの家(鵜住居小学校・釜石東中学校)
学区の広い範囲が津波浸水域となっているため、登下校時など子たちだけで行動している時間帯に地震が発生した場合には、彼ら自身がどこに避難すべきかを判断しなければなりません。そのため、これまでにも地域の津波避難場所マップづくりを実施するなどの活動を実施してきましたが、場所によっては避難場所が遠い場合や、小学校低学年の児童では自分で判断できない場合など、子どもたちだけでは避難が困難な状況も想定されます。
そのため、地域住民に依頼して、いざというときに子どもたちの避難の支援に協力してもらえる世帯(こども津波ひなんの家)を募りました。これは、防犯の分野で広く導入されている「こども110番の家」からヒントを得たもので、子どもを介して、地域に津波防災を波及されるための一つの方策です。まず、子どもには、地震が発生し、津波が襲来する可能性が高い場合に、どこに避難したらよいかわからない場合には、『こども津波ひなんの家』に駆け込むように指導しました。そして、協力してくれる世帯の方には、地震発生後、子どもが駆け込んできた場合には、近くの避難場所まで一緒に避難してもらえるように依頼しました。その際、たとえ津波襲来の可能性が低いと思われていたとしても、「この程度の地震では津波は来ない」などといわず、必ず駆け込んできた子どもと一緒に避難してほしいと強く依頼しました。
この理由は、2つあります。一つは、せっかく学校で教えられた「揺れたらすぐに避難する」という行動を子どもが実行したのに、大人がそれを否定するような対応をとることで、次回からその子どもが避難しなくなってしまうことを避けるためです。もう一つは、子どもに駆け込まれた世帯の方にも避難するという行動を経験してもらうためです。人には、いざというときにその場の状況は異常ではなく平常であると思う傾向があるといわれています(正常化の偏見)。そのため、たとえ『こども津波ひなんの家』に協力してくれるような意識の高い住民であっても、いざというときには“今がそのとき”と判断することができず、避難を躊躇してしまう可能性があります。これを回避するためには、避難するという行動を経験しておくことが有効であると考えました。人は実行したことがあることしか、いざというときに実行することはできません。頭で知識として理解しているだけでは不十分なのです。つまり、地域住民の避難促進策の一つとしても、この仕組みを導入しています。平成22年3月の時点では、学区内の83世帯が『こども津波ひなんの家』に名乗り出ていただきました。協力世帯には下のシールを玄関に貼ってもらいました。
津波襲来時の対応

ここでは釜石東中学校の対応を中心として、鵜住居小学校の対応も合わせて、津波襲来時の様子を紹介していきます。

(生徒や先生方からの話を聞いて、一部修正しました:平成23年4月13日)

津波からの避難の詳細
平成23年3月11日14:46 大きな揺れが両校を襲った。地震発生時、釜石東中学校ではすでに授業終了時刻であったため、校庭で部活動を行う生徒、校内で課外活動を行う生徒など、学内の様々な場所に点在していた。一方、鵜住居小学校では放下直前であり、多くの児童は校舎内に滞在していた。
釜石東中学校では、大きな揺れの最中、副校長が校内放送を使って全校生徒に避難の指示を出すことを試みた。しかし、地震発生直後、停電になってしまったため、それをすることができない。仕方なく、ハンドマイクで生徒に校庭への避難の呼びかけを試みるようとしたが、それは不要であった。多くの生徒は地震の揺れの大きさから“ただ事”ではないことを察知し、各々で揺れから身を守るための最善の対応を行い、揺れがおさまった後に、自らの判断で校庭に集合し始めたのである。そして、ある教師が生徒に向かって、「逃げろ」と叫ぶと、運動部員を先頭に全生徒は予め決めておいた避難場所(ございしょの里)まで走り始めた。
一方の鵜住居小学校では、津波の襲来に備えて、全校児童を校舎の3階に移動させていた。しかし、中学生が避難していく様子を見て、すぐに校外への避難を決断する。釜石東中学校の生徒たちは、鵜住居小学校の児童にとって率先避難者となったのである。児童たちは中学生のあとを追って、ございしょの里まで走り始めた。
ございしょの里まで走りきった小中学生はその場で点呼を取り、避難は無事に完了したかに見えた。しかし、ございしょの里の職員や生徒数名が、建物の裏山の崖が崩れていることを発見する。「ここも危険だから、もっと高いところに避難しよう」と生徒は先生に進言する。釜石東中学校の教師は、すぐにさらに高台にある介護福祉施設への避難が可能であるかどうかの確認に走る。避難可能の確認がとれ、小中学生はさらに高台までもう一度走り出す。
このとき、すでに地震発生からかなりの時間が経過していた。一刻の猶予もない。中学生は訓練したとおりに、小学生の手を引き、避難を支援する。避難の道中、園児を抱えながら、たくさんの園児を乗せた散歩用の台車を押し、必死に避難する鵜住居保育園の保育士を生徒たちは確認する。ここでも生徒たちは教えられた通り、『助ける人』としての役割を果たすこととなる。保育士と一緒に園児を抱え、台車を押し、必死に避難する。
先頭を行く中学生が介護福祉施設に到着し、点呼を取り始めたとき、消防団員や周辺にいた地域住民の「津波が堤防を越えた!」という叫び声が聞こえた。「逃げろ!」襲い来る津波の恐怖に、子どもたちは福祉施設よりもさらに高台にある国道45号線沿いの石材店まで駆け上がる。中には敷地内の裏山まで駆け上がる生徒もいたほどだ。避難の列の最後尾の児童は、介護福祉施設にたどり着くまえに津波に追いつかれてしまう。とっさの判断で山を駆け上がり、間一髪のところで無事にみんなのところに合流することができた。
石材店にまで避難してきた子どもたちは、彼らの学舎が、そして見慣れた街並みが轟音とともに津波にのまれ、押し流されていく残酷な光景を目撃することとなる。しばらくののち、避難している場所が屋外であったため、屋内で滞在可能な場所への避難を開始する。先日開通したばかりの釜石山田道路(縦貫道)を通って、旧釜石第一中学校体育館まで移動し、そこで一晩を過ごした。翌日、鵜住居小学校の児童は甲子小学校へ、釜石東小学校の生徒は甲子中学校へと移送してもらい、避難生活を送ることとなった。こうして、津波襲来時に学校管理下にあった鵜住居小学校、釜石東中学校の児童・生徒約570人は無事に津波から生き残ったのである。
   
大槌湾(鵜住居・片岸周辺)の津波浸水範囲

           
津波によって浸水した鵜住居小学校(手前)
と釜石東中学校(奥)
校舎の3階に軽自動車が突き刺さった
鵜住居小学校
小中学生が最初に
避難してきた場所(ございしょの里)
           
中学生が落石に気付いた避難先の裏山
 
小中学生が駆け上がっていった避難路
 
次に避難先とした福祉介護施設
(道路右側の橙色の建物)までの坂道
           
小中学生が一緒に避難している様子
(H23.3.11津波襲来前に撮影)
最終的に避難してきた国道45号線の石材店
 
被災した鵜住居地区の様子
 

避難所での対応(釜石東中学校)
また、釜石東中学校生徒は、避難所でも教えられた通り『助ける人』としての役割をしっかりと果たしていたことを付け加えておきます。
生徒たちは、避難所での生活が落ち着いてきた頃から、誰に指示される訳でもなく、率先して毎朝清掃を行い始めました。その活動を見た他の避難住民も生徒たちと一緒に清掃を始めるようになったそうです。
生徒たちが移送された甲子中学校は彼らの居住する地域からはだいぶ離れた場所にあります。そのため、家族と連絡のとれた生徒は家族のもとへ避難先を移動していていきました。その際に、家族や親戚が彼らの安否を確認することが困難であったとの経験を活かし、避難所に避難している住民の名簿づくりを開始しました。生徒たちは「これが被災後最初のEASTレスキューの活動だ」と言って、手分けして避難者カードの記入をお願いして回っていました。彼らはこの活動を被災後4日目から開始しています。
   
釜石東中学校生徒が作成した避難者カード

安否札が救った命
最後に、釜石東中学校の生徒が、津波襲来前までに行ってきたEASTレスキューの活動が、しっかりと地域で活用されていた事実を紹介したいと思います。被災数日後、釜石東中学校の先生が鵜住居地区にある自宅アパートの様子を見に行った際のことです。先生のご自宅も津波によって浸水してしまい、周辺にはどこからか流されてきた家屋の残骸が点々としていました。先生は、偶然にもその中に、生徒たちが地域住民に配布した安否札が玄関に貼り付けてある家屋があることを発見しました。
また、地震発生後、家族のことを心配して帰宅した方の中には、安否札が玄関に貼ってあったことを外から確認することができたために、自宅の中に入らずすぐに避難し、九死に一生をえたという方もいました。
このように、彼らの学習は、犠牲者行方不明者が19,000人を超えるような大災害の中で、自らの命を守っただけでなく、災害時に地域住民に活用され、そして被災後においても地域住民の役に立つことができたのです。日頃の防災教育を成果をこれ以上ないかたちで示してくれました。
       
津波によって流された家屋の玄関に貼ってあった
生徒が配布した安否札
生徒が作成した安否札の例
(右:表/左:裏)